他人の言ったことに対するネガティブ反応3選 第二回

カウンセリング

前回はこちら↑。

第一回は、たとえ話と具体例を出して、どんなネガティブ反応が考えられるか、というところまでお伝えしました。

今回はその続き。

どうしたらこのネガティブ反応から逃れられるのか?

という事を考えたいと思います。

ネガティブ視点から相手視点へと変える!

ネガティブな時と言うのは、とかく「自分の堀った「悩み」という穴に、身体ごと思いっきり突っ込んでる状態」です。

なので、思い切って自分の視点から離れてみると、新しい考えが生まれてきます。

なので、ここはAさんの視点に一度立ってみましょう。

Aさんがこれらの気持ちを聞いたら、どのように思うでしょう?

AさんはBさんの気持ちを聞いて、Bさんの夢が目標に近づくお手伝いができた、と内心喜んでいました。

だけど、Bさんの本心を開くと・・・

・「私にはできないなあ」(自信喪失)

・「おしつけられて嫌な感じ」(相手の怒り)

・「私とは違う生き方だね」(距離を取る・引く)

と、自分から夢を遠ざけてしまっている、はてば自分(Aさん)から距離を置こうとしているではありませんか!

さて、Aさんはこれを見て、実際のところ「とんでもない勘違いだ!」と憤慨するでしょうか?

それとも、Aさんは内心はほくそ笑んで(そう思ってほしい…)と企んでいたのでしょうか?

前者であれば、例えば…

AさんはBさんに「そんな風に思うのか!?どこまでもダメだな!」と言うのでしょうか?

もし後者の場合であれば「占めたもんだ」という事にもなります。が、Bさんは直接Aさんに確かめますか?

B:「Aさん、実は私を陥れようとして…」「さげすんでます?」

・・・それこそ、こんなこと普通に聞いてしまったら、小さなコミュニティの中では大事故です(笑)。修復できる関係も修復できなくなるかもしれませんよね。

かなり振り切ったAさんをイメージしてしまいましたが、

たとえAさんが意識的であれ無意識であれ、そしてそれが真実だったとしても、

まず、確かめようもありません。

相手の気持ちはわからない。

つまるところ、相手の気持なんか考えたって、答えはないのです。

【原点自分論で生きれば感謝も生まれるとういこと】

先ほども書いたように、真実はどこまで行ってもわかりません。確かめない限り、答えはありません。この時点で、

「全ての物事は、幻想・妄想を逃れることができない」というのが原点自分論です。

全ては個人の視点や思考を逃れることができないし、

たとえ一般論であっても、その人の脳内によりカスタマイズされているものです。

たとえば「人をだましてはいけない」という言葉に対しても、その言葉に対しての強度も関心度も不安度も全く一人一人違うはずです。

人生のなかでだまされることをガチで経験した人は

もし自分がだますことがあるもんならひどい自己嫌悪に陥ったりするわけですが、

「だましてはいけない」を一般論として生きている人は、

たとえいけないなあと思っても、自分が人をだましていることに対して多少許しており、だまされることについても意外と寛容かもしれない。

(SNS上で怒る炎上って、こうして起こっている気がします。)

一般論においても、常識においても、適当に交わされる会話の一言においても、そして事象から湧き上がる気持ちにおいても、

視点や経験、人生観や環境・文化・その時の気分・成長によって一人一人違うわけです。

【どこを頼りに物事や自己を受け入れていけばいいのか?】

そうすると道は一つになります。自分で納得するのみ。

真実のない考えをずっと持ち続けているより、いったん何かしらの結論を持つという事。

自分で自分を判断することが、自己の受け入れにもつながります。

これを「あ~なのかな~」「こ~なのかな~」「答えはどこに?」と迷い続けていると、

悩み続けるループから一生抜け出せなくなるのです。

「このブランドを 多くの人が素敵と言うから 私の今日は ブランド記念日」(by俵まち風)

この意識こそ、他人軸なんです。

自分が吟味して、判断を自分にゆだねる。

どんなブランドでも、どんなに素晴らしいと言われる教材でも、どんなに素敵だと言われる人でも、自分が見ている聞いている知っていることに瞬間瞬間「自分論」を持てば、全て自分のもの(自分軸)になります。

もちろん、ブランドが嫌いでも、ブランドが悪いわけではありません。

ブランドがブランドたる由縁もあるでしょうし、

そのブランド理念が好きだからまといたい!と言う自分軸があればその人はそれでいいのですし、

営業として信頼度が増すのであればそのために持てばこれも自分軸です。

自分も自分の価値観で自分を持つということは、相手の自分軸も、必然的に認めざるを得ません。

たとえ危ない・ヤバイといわれている教材や宗教があっても、それによって救われている人がいるのだからこの世に存在していると考えると、

私は今それはいらない(救われない)が、

あなたの今には必要な(救われた)のね。

となります。

相手に答えや判断をゆだねるのではなく、自分がどう取り、どう学ぶか。

そこを考えながら生きると、外から振り回されなくなります。

【あなたがどう思おうと、存在そのものはすべて許されている】

自分が存在を許していないものしか世界になかったら、人類は進歩していかないでしょう。

そして自分が生きる楽しさも半減すると思います。

私の今にフィットするものと、

私の今にフィットしないものがあって、

これと同じように、

他人の今にフィットするものがあって、

それは私を驚異的に脅かす(殺される)ものでなければ共存できる。

そんなことを考えられるようになれば、他人を批判する必要もないのです。

少し回り道してしまいましたが、

「自分がどう判断しているか」が重要な生き方のコツになる。

そうすると生きやすくなるし、人の批判をして自分が疲れてしまう事もないな、という私なりの「やさしい生き方」です。

その論点で先のAさんのことに戻ると、

Aさんの生き方は否定しなくてもいい

そして自分の生き方も、もちろん否定しなくていい

となります。

しかし、それでも劣等感を感じてしまう自分がああああ!となることも考えられます!!

ということで、その対処法についてもう少し考えてみようと思います。第3回に続きます。

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